コンテスト作品2 | 阪大教育コミュニケーション学(三宮)研究室
生徒が夏休みの予定などをぺちゃくちゃとおしゃべりしていると,ウラシマ先生がやってきました。
「やあ,みんな久しぶりだね。夏休みだというのに,こんなに集まってくれるなんて,正直びっくりしています。みんな夏休みの宿題は進んでいるかな?」
生徒たちの顔が曇ります。
「ははは,まぁ,それはさておき,1学期に,感情が判断を狂わせる,って話をしたのを覚えているかな」
生徒たち 「覚えていまーす」
「よし,みんな優秀だね。今日は,その話と関連して,損か得かという判断をする時に,感情がどう影響を与えるのか,という話をしたいと思います」
すると,一番前の席に座っていたユリが手をあげました。
「先生,損か得かを判断するような時に,感情なんて関係ないように思うんですけど。冷静に考えれば誰でもわかるんじゃないですか?」
「なるほど,確かにそう考えるのも無理はないね。実は,伝統的な経済学というのは,ユリくんと同じように考えてきたんだよ。つまり,人間ってのは,お金が絡むとみんな理性的になって,自分に損が無いように,自分に得になるように行動するってわけ。そんな前提のもと,数学なんかも用いて様々な理論を生み出してきたんだ」
「私,数学が苦手だから,経済なんてチンプンカンプンだわ」
と,ため息をつくのはミオ。
「そう,まさにそれなんだよ!」
「え…え,急に何ですか?」
「つまり,今までの経済学ってのは,人間はみんなとても合理的に考えて行動する,いってみれば,コンピュータのような超人だと考えてきたんだけど,実際はどうだろう?」
「私,とてもじゃないけど,いつもいつもそんな風に考えて行動できません」
「そうだよね。きっと,みんなもミオくんと同じだと思う。それで,今までの経済学は,人間の本当の行動特性を表せていないんじゃないか,と考える人たちが出てきてね,ただ数式をこねくり回して理論を作るんじゃなくて,実際に人間がどう行動・判断するのか調べてみよう,って考えたんだ。そうして,誕生したのが『行動経済学』っていう新たな学問なんだよ」
「まぁ,一応経済学と名前は付いているけど,複雑な数式の話なんかはしないから,気楽に聞いてもらえればいいよ。」
「さて,ここでみんなに質問だ。コインを投げて表が出たら,1万円がもらえる。ただし,裏が出ると,1万円を払わなければならない。このゲーム,やりたいと思う?ちょっと訊いてみようか。このゲームやりたいという人は?」
―数人がパラパラと手をあげる。
「じゃあ,こんなゲームやりたくないという人は?」
―大多数が手をあげる。
ウラシマ先生はどこか満足げな様子です。
「多くの人は,やりたくないと答えたね。どうしてかな?」
すると,エリが手をあげます。
「1万円も失うのがいやだからです」
「そうかい?でも,1万円もらえる確率と,1万円失う確率は全く同じだよ。もしかしたら1万円手に入るかもしれないのに」
「でも,やっぱり1万円失うのがイヤだって気持ちが大きくて…」
「そう!損したくないって感情に動かされたんだよね?」
ここで,何人かの生徒も気がついたようです。
「そっか!合理的に考えたら,損する確率も得する確率も同じなのに,ついつい損したくないって考えちゃう。これが人間の行動特性なんですね!」
と,はりきってユリが答えます。
「その通り!みんなだんだんわかってきたようだね。これが行動経済学というものなんだ。ちなみに,今ユリくんが言ってくれたように,人は同じ額の損失と利益では,損失の方をより重く考えてしまう。これを損失回避性っていうんだ。この損失回避性という性質は,他のいろんな行動特性のベースになっているんだよ」
と手をあげるルミ。
「ん,何かな?」
「実は,うちは学校の成績でおこづかいの額が決まるんですけど…」
「へぇ,面白いね!」
「それで,私は1学期頑張ったんで,おこづかいが月3500円から4000円に上がったんです。でも,私の兄が1学期の成績があまり良くなくて,月5000円から4500円に下がっちゃって…。私はルンルンなんですけど,兄はすごく不機嫌になっているんですよ。でも,よくよく考えたら,私より兄の方が500円多くもらっているので,これって変かなと思って。このことって損失回避性と関係ありそうですよね?」
「うーん,なかなか面白い話を聞かせてもらったよ,ありがとう!確かに,お兄さんが不機嫌になったのは,損をしたという気持ちが大きかったからだろうね。それと,この話にはもうひとつ重要なポイントが含まれているんだ」
「さっき,ルミくんが指摘してくれたように,客観的に見たら,お兄さんの方がルミくんよりたくさんのおこづかいをもらっているから,よりハッピーなはずだよね。そして,伝統的な経済学でもそう判断するんだ。難しい言い方をすると,ハッピーかハッピーでないかは,今現在の富の水準で判断するってわけ。でも,実際はそうじゃない。お兄さんはもともと5000円だったおこづかいが4500円に減ったから損失,ルミくんは3500円から4000円に増えたから利益とみなすわけだ。こんなふうに,人は,もともとのおこづかいの額,これを参照点っていうんだけど,この参照点からの変化によって,ハッピーかハッピーでないかを判断する。これを参照点依存性っていうんだ」
「この性質もいろんな行動特性のベースになっているんですか?」
と,ミオ。
「お,するどいね。あまり詳しく言うと時間が無くなっちゃうけど,今日話した内容は,プロスペクト理論という理論の一部を紹介したに過ぎないんだ。この行動経済学という学問は,まだ新しくできたばかりで,これからもいろんなことがわかってくると思う。今日は,とりあえずみんなに行動経済学という学問の存在を知ってもらって,人が必ずしも合理的に損得を考えているわけじゃない,ということを理解してもらいたかったんだ。」
そう,楽しかったウラシマ先生の授業も,いつまでも続けていては意味が無いのです。生徒たちが誰かに頼らず,自分自身の力で問題を解決していくようにすること,それがこの授業の目的であり,学園の教育方針なのです。
「僕もいつまでもみんなに授業をしてあげたいけど,それではみんなが自分の頭で考えられなくなっちゃう。ただ,与えられているだけではダメなんだよ」
そう言うウラシマ先生の目は,どこかさびしそうでしたが,また同時にやさしさも感じられました。
エリ 「そうだよね。自分たち自身でやっていく。これが大切なんだよね。」
ミオ 「そうだ,今度みんなで人間の思考についての研究会やらない?」
ユリ 「グッドアイデアね!やりましょうよ!」
ルミ 「じゃあ,まずグループ分けして,それぞれテーマを決めて…」
ウラシマ先生は,そんな生徒たちの様子を決めて,本当に誇らしく思いました。
「あれ,校長先生?」
いつの間にか,校長先生が様子を見に講義室に来ていました。
「うまくいったようですな,ウラシマ先生」
「ええ,これで僕も役割をしっかり果たせたようです」
2人はそっと講義室をあとにしました。
≪参考文献≫
友野典男(2006)『行動経済学 経済は感情で動いている』光文社
「カナリア学園の物語コンテスト」入選作品
作品番号1 夏休み特別授業 ~経済は感情で動いている?~
◇人間はみんな超人?
カナリア学園も夏休みに入りました。グラウンドでは運動部の生徒が練習に励み,音楽室からは,吹奏楽部が合奏する様子が聞こえてきます。そんな中,大講義室にぞろぞろと人が集まってきています。今日は,「考える時間」の夏休み特別授業の日です。1学期に開講されて大好評だった「考える時間」の授業。多くの生徒から,もっと色んなことが知りたいという声があがり,夏休みに1日特別授業をすることになったのです。生徒が夏休みの予定などをぺちゃくちゃとおしゃべりしていると,ウラシマ先生がやってきました。
「やあ,みんな久しぶりだね。夏休みだというのに,こんなに集まってくれるなんて,正直びっくりしています。みんな夏休みの宿題は進んでいるかな?」
生徒たちの顔が曇ります。
「ははは,まぁ,それはさておき,1学期に,感情が判断を狂わせる,って話をしたのを覚えているかな」
生徒たち 「覚えていまーす」
「よし,みんな優秀だね。今日は,その話と関連して,損か得かという判断をする時に,感情がどう影響を与えるのか,という話をしたいと思います」
すると,一番前の席に座っていたユリが手をあげました。
「先生,損か得かを判断するような時に,感情なんて関係ないように思うんですけど。冷静に考えれば誰でもわかるんじゃないですか?」
「なるほど,確かにそう考えるのも無理はないね。実は,伝統的な経済学というのは,ユリくんと同じように考えてきたんだよ。つまり,人間ってのは,お金が絡むとみんな理性的になって,自分に損が無いように,自分に得になるように行動するってわけ。そんな前提のもと,数学なんかも用いて様々な理論を生み出してきたんだ」
「私,数学が苦手だから,経済なんてチンプンカンプンだわ」
と,ため息をつくのはミオ。
「そう,まさにそれなんだよ!」
「え…え,急に何ですか?」
「つまり,今までの経済学ってのは,人間はみんなとても合理的に考えて行動する,いってみれば,コンピュータのような超人だと考えてきたんだけど,実際はどうだろう?」
「私,とてもじゃないけど,いつもいつもそんな風に考えて行動できません」
「そうだよね。きっと,みんなもミオくんと同じだと思う。それで,今までの経済学は,人間の本当の行動特性を表せていないんじゃないか,と考える人たちが出てきてね,ただ数式をこねくり回して理論を作るんじゃなくて,実際に人間がどう行動・判断するのか調べてみよう,って考えたんだ。そうして,誕生したのが『行動経済学』っていう新たな学問なんだよ」
◇損はイヤだ!!
生徒たちは暑さも忘れて先生の話を食い入るように聞いています。「まぁ,一応経済学と名前は付いているけど,複雑な数式の話なんかはしないから,気楽に聞いてもらえればいいよ。」
「さて,ここでみんなに質問だ。コインを投げて表が出たら,1万円がもらえる。ただし,裏が出ると,1万円を払わなければならない。このゲーム,やりたいと思う?ちょっと訊いてみようか。このゲームやりたいという人は?」
―数人がパラパラと手をあげる。
「じゃあ,こんなゲームやりたくないという人は?」
―大多数が手をあげる。
ウラシマ先生はどこか満足げな様子です。
「多くの人は,やりたくないと答えたね。どうしてかな?」
すると,エリが手をあげます。
「1万円も失うのがいやだからです」
「そうかい?でも,1万円もらえる確率と,1万円失う確率は全く同じだよ。もしかしたら1万円手に入るかもしれないのに」
「でも,やっぱり1万円失うのがイヤだって気持ちが大きくて…」
「そう!損したくないって感情に動かされたんだよね?」
ここで,何人かの生徒も気がついたようです。
「そっか!合理的に考えたら,損する確率も得する確率も同じなのに,ついつい損したくないって考えちゃう。これが人間の行動特性なんですね!」
と,はりきってユリが答えます。
「その通り!みんなだんだんわかってきたようだね。これが行動経済学というものなんだ。ちなみに,今ユリくんが言ってくれたように,人は同じ額の損失と利益では,損失の方をより重く考えてしまう。これを損失回避性っていうんだ。この損失回避性という性質は,他のいろんな行動特性のベースになっているんだよ」
◇おこづかいが増えた減った
「先生!」と手をあげるルミ。
「ん,何かな?」
「実は,うちは学校の成績でおこづかいの額が決まるんですけど…」
「へぇ,面白いね!」
「それで,私は1学期頑張ったんで,おこづかいが月3500円から4000円に上がったんです。でも,私の兄が1学期の成績があまり良くなくて,月5000円から4500円に下がっちゃって…。私はルンルンなんですけど,兄はすごく不機嫌になっているんですよ。でも,よくよく考えたら,私より兄の方が500円多くもらっているので,これって変かなと思って。このことって損失回避性と関係ありそうですよね?」
「うーん,なかなか面白い話を聞かせてもらったよ,ありがとう!確かに,お兄さんが不機嫌になったのは,損をしたという気持ちが大きかったからだろうね。それと,この話にはもうひとつ重要なポイントが含まれているんだ」
「さっき,ルミくんが指摘してくれたように,客観的に見たら,お兄さんの方がルミくんよりたくさんのおこづかいをもらっているから,よりハッピーなはずだよね。そして,伝統的な経済学でもそう判断するんだ。難しい言い方をすると,ハッピーかハッピーでないかは,今現在の富の水準で判断するってわけ。でも,実際はそうじゃない。お兄さんはもともと5000円だったおこづかいが4500円に減ったから損失,ルミくんは3500円から4000円に増えたから利益とみなすわけだ。こんなふうに,人は,もともとのおこづかいの額,これを参照点っていうんだけど,この参照点からの変化によって,ハッピーかハッピーでないかを判断する。これを参照点依存性っていうんだ」
「この性質もいろんな行動特性のベースになっているんですか?」
と,ミオ。
「お,するどいね。あまり詳しく言うと時間が無くなっちゃうけど,今日話した内容は,プロスペクト理論という理論の一部を紹介したに過ぎないんだ。この行動経済学という学問は,まだ新しくできたばかりで,これからもいろんなことがわかってくると思う。今日は,とりあえずみんなに行動経済学という学問の存在を知ってもらって,人が必ずしも合理的に損得を考えているわけじゃない,ということを理解してもらいたかったんだ。」
◇自分の力で考えること
「これまでの授業もそうだけど,僕が話したことは人間の思考についての様々な知識のほんの一部に過ぎないんだ。でも,もう君たちは自分の頭で考える力がだいぶ付いてきた。これからは,自分自身で,人間の思考はどんなふうになっているのかを調べていってほしい。それこそが,僕の一番望んでいることなんだよ。そして君たちはもう,それができるようになっているはずだ。」そう,楽しかったウラシマ先生の授業も,いつまでも続けていては意味が無いのです。生徒たちが誰かに頼らず,自分自身の力で問題を解決していくようにすること,それがこの授業の目的であり,学園の教育方針なのです。
「僕もいつまでもみんなに授業をしてあげたいけど,それではみんなが自分の頭で考えられなくなっちゃう。ただ,与えられているだけではダメなんだよ」
そう言うウラシマ先生の目は,どこかさびしそうでしたが,また同時にやさしさも感じられました。
エリ 「そうだよね。自分たち自身でやっていく。これが大切なんだよね。」
ミオ 「そうだ,今度みんなで人間の思考についての研究会やらない?」
ユリ 「グッドアイデアね!やりましょうよ!」
ルミ 「じゃあ,まずグループ分けして,それぞれテーマを決めて…」
ウラシマ先生は,そんな生徒たちの様子を決めて,本当に誇らしく思いました。
「あれ,校長先生?」
いつの間にか,校長先生が様子を見に講義室に来ていました。
「うまくいったようですな,ウラシマ先生」
「ええ,これで僕も役割をしっかり果たせたようです」
2人はそっと講義室をあとにしました。
≪参考文献≫
友野典男(2006)『行動経済学 経済は感情で動いている』光文社
人間科学部 3年 大國晶弘